2024.07.12

[新千円]新紙幣発行!北里柴三郎:医学の発展に大きな功績を残した偉業

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この度新紙幣が発行されました。そのうちの一人であり新千円札となった北里柴三郎は医療に深くかかわった人物です。面接などで効かれる可能性が高いため医学部受験生はどんな人物か必ず知っておくべき人物です。

北里柴三郎の偉業とその影響

1889年、北里柴三郎は、破傷風菌を世界で初めて単独で培養することに成功しました。 破傷風とは、破傷風菌が傷口から体内に入り込み、全身の筋肉を痙攣させる病気で、重症化すると呼吸ができなくなり命を落とすこともあります。この病気の予防と治療法を確立するためには、破傷風菌のみを取り出して研究する必要がありました。北里は亀の子シャーレという独自の装置を開発し、この困難な課題を克服しました。亀の子シャーレのレプリカは北里大学白金キャンパスにある北里柴三郎記念館展示室でも見ることができます。

この菌は酸素があると増えないという特性があると北里が見抜きました。しかし当時は一つの空気のみをシャーレ内に収めるという技術が存在しませんでした。ならば作ってしまおうというのが北里の方針で自ら実験道具まで開発したのでした。この器具は物理学にも精通していないと作成が難しい器具であったことから北里は医学一辺倒ではなく様々な学問に広い知見を持っていたことが伺えます。

北里柴三郎の背景と教育

北里柴三郎は、1853年に生まれ、東京大学医学部を卒業した後、内務省衛生局に勤務しました。その後、ドイツに留学し、細菌学の権威であるコッホのもとで学びました。1886年からコッホの指導を受け、1889年に破傷風菌の培養に成功しました。この功績により、1892年には医学博士となり、帰国後は伝染病研究所の所長に就任しました。

第1回のノーベル生理学医学賞を受賞?

1901年北里の同僚であったベーリングがジフテリアに対する血清療法で第1回のノーベル生理学医学賞を受賞する。しかし共同研究者の北里はノーベル生理学医学賞を逸した。これには当初のノーベル賞の受賞者は欧米人中心であったことや今と違って1つのテーマで複数人が受賞することは考えられなかった。またドイツでは国を挙げてベーリングがノーベル生理学医学賞を受賞するように応援したのに対し、北里には日本からの応援はなかった。国内でのノーベル賞の価値認知も低かったことや、同時期に北里は東大教授が脚気細菌説を発表した論文を批判したため、東大閥(陸軍軍医総監の森林太郎が先方)から忘恩の徒とみなされ反旗を返されていた。こういった背景から本来ならばノーベル賞に相当する功績を挙げたものの受賞に至らなかったという背景があります。

ペストの終息と具体的対策

1890年代に中国で再び発生したペストに対し、北里柴三郎は1894年に香港に渡り、ペスト菌を特定しました。彼は病原菌を突き止めるだけでなく、ネズミの駆除やネズミの侵入を防ぐための具体的な対策を指導しました。これにより、ペストの終息に大きく貢献しました。数年後に日本でもペストが発生しましたが、北里の指導により早期に対策が取られました。同僚がペストに感染するという危機的状況も乗り越え研究を完遂し日本のみならず世界の伝染病蔓延から救いました。

偉人旧千円札野口英世を育成し、日本医学の発展に寄与

北里柴三郎は多くの弟子を育成し、その中にはペスト・蛇毒・梅毒・黄熱病の研究で有名な旧1000円札の野口英世がいます。野口英世は1898年に私立伝染病研究所に入所し、北里の推薦でアメリカに留学しました。北里は生涯を通じて、日本の医学と医学教育の発展に尽力しました。野口英世も借りた金を返さなかったり留学資金で遊びまくったり婚約破棄したりと破天荒な偉人ですがその野口も北里の前では背筋をただすような関係でした。

恐怖の雷親父!ドンネル北里

北里柴三郎が生前、その人柄から「ドンネル(ドイツ語でder Donner=雷おやじ)」と呼ばれていたことに由来します。失敗や怠慢などに容赦のない雷が落ち、その大声での怒鳴り声は研究所内に響き渡っていました。医学研究というものは病原菌を扱うため一つのミスで自らも感染し危険な状態となるため北里は漫然とした態度での研究を許しませんでした。悪気や私心はなく一喝の後はカラッとした態度だったそう。家庭内でもこの恐怖の雷親父振りは健在で3男3女を育て上げました。怒鳴りつけては怯える子供たちを見てやりすぎたかと反省し妻に子供たちの反応をこっそり確認するようなさりげない一面もあったといいます。

北里研究所の設立と功績

北里柴三郎は、伝染病研究所が文部省に移管されることに反対し、1915年に私立北里研究所を設立しました。

北里柴三郎は北里大学の創設者?

北里柴三郎は北里大学の創設者ではありません。北里大学は1962(昭和37)年、北里柴三郎が1914(大正3)年に創設した北里研究所の50周年記念事業の一環としてゆかりの地、東京都港区白金に衛生学部をもって創設されたことが始まりです。創設者でこそないものの北里柴三郎が立ち上げた研究所が元となってできた大学であり彼の意思を継いだ大学であるということには違いありません。この大学は北里が成した学統を受け継ぎ、北里が顕現した「開拓」「報恩」「叡智と実践」「不撓不屈」を建学の精神としています。北里大学の医学部は学費が高いことでも有名です。何とか学費を紙幣化した北里柴三郎で支払える額に収めてほしいとまではいかないまでも多少の減額が欲しいところですね。

北里柴三郎は慶応義塾大学の医学部の創設者

北里大学と直接の関わりはなかった北里柴三郎ですが、1916年には慶應義塾大学医学科の創設に尽力し、医学科の初代学長となりました。また、彼は日本医師会長を務め、多くの医学団体の要職に就きました。北里の研究は、日本の公衆衛生や医学教育の発展に大きく貢献しました。

北里柴三郎は旧一万円札の福沢諭吉と親交が深く様々援助を受けてきました。何とか福沢諭吉への恩義を返したいと北里柴三郎が尽力し慶応義塾大学の医学部創設へとこぎつけました。今では日本一の私立医学部の名をほしいままにする慶応義塾大学ですから見事に恩義を果たしたと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

なおこの縁から北里大学と慶応義塾大学の間は良好で現在も共同研究などが実施されています。

結論

北里柴三郎の業績は、破傷風菌の培養から始まり、ペストの終息、多くの偉人の育成、日本の公衆衛生の発展に至るまで、多岐にわたります。彼の研究と教育への貢献は、現代の日本医学においても重要な礎となっています。北里柴三郎の努力と忍耐力、そして高い技術と専門知識に支えられた彼の業績は、今後も多くの人々に影響を与え続けるでしょう。医学部受験生は面接などで効かれる可能性が大です。しっかりと北里柴三郎について理解しておきましょう。

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